経過

二年前に廃墟となった病院に貴重な物があるとの噂がたち、1987年9月13日頃、二人の若者が廃墟に忍び込み、 放射性装置をこじ開けてセシウム-137が収納されている鉛の容器を盗み出した。

その後、廃品回収業者達にこの容器が売り渡され、9月18日頃、廃品回収御者の作業場でこの容器がこじ開けられた。 夜間青白く光るこの金属を珍しく思った何も知らない大勢の人々は、この物体に不思議な力がある物と信じ、 体に塗ったり、水に溶かして飲んだりした事が原因で、多数の人々が被爆すると共にセシウム-137が拡散して、 汚染域の拡大と言う結果になった。その後、事故に巻き込まれた女性 (後日この事故で死亡に至る)が廃品回収業者である夫や家族の健康異常に気づき、 この金属を持って公衆衛生局の病院に行ったことから、被爆事故が判明した。

9月29日に、ブラジル原子力委員会は、ゴイアニア市の物理学者達から、この事故の連絡を受け、 238名もの専門家を投入して被爆者の治療、地域・住民の汚染調査、環境影響評価などの活動を開始した。

しかし、この時期、この地方は雨期にあたり、水溶性のある塩化セシウムは降雨で広範囲に広がり、 事態を一層悪化させた。
又、この事故の知らせを受けた外国の専門家も、国際原子力機関(IAEA)を通じて、 応援に駆けつけた。そして、ゴイアニア市の10%に当たる市民11万2千人をオリンピック・スタジアムに集めて、 サーベイ・メーターとホール・ボディー・カウンターを駆使して、汚染調査を行い、250人もの汚染者を発見した。
このうちの54名がオリンピック・スタジアムでの入院を余儀なくされ、さらに詳しい検査を受けた。
皮膚に放射能被爆による、損傷が見受けられた患者は28名に上り、その後、 病状の激しいこの28名が特別な施設の整った病院に移され、内8名がリオ・デジャネイロにある海軍病院に移された。

この事故の結果、放射線被爆による4名の死亡、 ドラム缶で1万8千本相当の放射性廃棄物の発生及び専門家を始めとする人々の労力の多大なる消費という犠牲を出した。
ホールボディカウンター 写真提供:IAEA,公開可

治療

血液検査により、14名に骨髄損傷が見られ、内8名に急性放射性症候群が見受けられた。

治療の方法として先ずは体内に残っているセシウム-137を、 プルシアン・ブルーで取り除くことから始めたが、 汚染が始まってから一週間以上も経っていたので、 体内から血液へのセシウム-137よる汚染がすでに始まっていた。
それに依る免疫低下が原因で、抗生物質による感染症防止や白血球の輸血などの 第二次的な治療を施すしか方法が無かった。
一番病状がひどかった6人には、新しい治療法のGM-CFS(顆粒球マクロファージコロニー刺激因子) と言う骨髄での白血球の増加を促進する、一種のホルモンが投与された。
被爆後3週間目
6人中5名に48時間無いし72時間で、白血球の増加が見られたが、介護の甲斐も無く、 4名がKlebsiella菌による化膿症及び敗血症で死亡に至った。
死亡した人達の被爆は、おおよそ5千〜6千ミリシーベルトと予測されている。
これは致死量の6倍から7倍の量だが、この被爆は、体の外部から来た放射能を受けたことによる被爆よりも、 呼吸や飲食により体内に取り込まれたセシウムから出た放射線を受けた被爆の方が大きかった。
死亡した人以外に1千〜7千ミリシーベルト程度の被爆をした人達が何人かいると言われている。
 
被爆後75日
被爆後3日から30日の状態(写真提供:IAEA.公開可)
生き残った被爆者達とゴイアニア市民は精神的ショックが拭えず、精神的治療が必要な状態だった。 又、治療や汚染除去に当たった人達も事の重大さに気が付かず、被爆した人もいた。

以前にチェルノブイリで起きた事故からの教訓を生かした治療が行われたが、 チェルノブイリでは1996年に白血病の患者が急増する傾向が見られている。
これは原発事故との関係があると考えられているが、ゴイアニア市でも、同じ事が起きると考えられている。

【後日談】
事故があった後、誰も刑事的責任を問われる事がなかった。ゴイアニアは現在、リゾート地として栄える。