【動機】 本事例では、1400人以上の死傷者を出す大惨事の中で、事故後10日以上もたって奇跡的に生還した人がいる。何を持って、この奇跡が成し遂げられたかを追求することにより、これからの事故対処法に役立つと思った。 |
【事例発生日付】1995年6月29日 午後05:50 【事例発生地】韓国、ソウル 【事例発生場所】三豊(サンプン)百貨店 【概要】 1995年6月29日、韓国、ソウル市の地上5階、地下4階の「三豊(サンプン)百貨店」は、多くの人で賑わっていた。しかし、閉店間際の午後5時50分、この高級デパートが突如、轟音を立てて崩壊した。駆けつけた救助隊の懸命な救出活動にもかかわらず、死者501名・負傷者937名・行方不明者6名という、韓国はもちろん世界にも類を見ない大惨事となったのである。ところが、何と事故から10日以上も経ってから奇跡的に生還した人が3名いた。 |
【事象】 1995年6月29日 午前8時30分(崩壊9時間20分前) 店員達は開店準備を始めていた。実は事故前日、5階の従業員が天井のひび割れを発見していたが、 小さかったので、報告しなかった。しかし翌朝、ひび割れがさらに大きくなっていたため、従業員は直ちに 上司に報告した。 午前9時(崩壊8時間50分前) 経営陣が集まり、天井のひび割れについての緊急会議を開いた。そしてデパートの営業はこのまま続けることになった。 午後3時(崩壊2時間50分前) 社長が呼んだ建築士らがデパートに到着。調査の結果、危険を察知した専門家たちが警告を発したにもかかわらず、経営陣は、まもなく閉店だからという理由で、デパートの営業を続けることにした。 午後5時50分 ついに5階の天井が崩れ落ちた。デパートの崩壊が始まった。まるで、地震が起こったかのように建物は揺れ始め、客や従業員達は皆一斉に出口に向かって逃げ出した。事故報告書によると、最初の崩壊が始まってからわずか45秒で、地下2階まで崩壊してしまった。 |
【経過】 デパート崩壊事故発生後、地上で懸命な救出作業が続く。 《チェ・ミョンソクさん(地下1階・靴売り場の男性アルバイト)の場合》 デパート崩壊当時、チェ・ミョンソクさんは地下1階の靴売り場にいた。崩壊とともに突然床が抜け、彼はあっという間に意識を失った。彼はデパート崩壊と共に、地下1階の靴売場から一気に地下2階の駐車場エレベーター側まで落とされてしまった。だが、偶然にも、頑丈に作られたエスカレーターがガレキを支えてくれたため、彼は、ほとんど無傷だった。 《ユ・ジファンさん(地下1階・日用雑貨売り場の女性店員)の場合》 デパート崩壊当時、同じ地下1階にいた彼女は、反射的に逃げ出していたが、コンクリートの塊が落ちてきて、気を失った。彼女は、地下1階の売り場から、地下2階の駐車場エレベーター側に転落。 《パク・スンヒョンさん(地下1階・子供服売り場女性アルバイト)の場合》 デパート崩壊当時、彼女は地下1階から、出口に向かって逃げ出していたが突然、天井が崩れ始め、足がすくんで動けなくなってしまった。彼女もまた、地下1階の売り場から地下2階へと転落し、気を失ってしまった。そこは、長さ2m、幅70cm、高さ50cm程の空間で、偶然にもそこにあったドラム缶が崩れ落ちてきた鉄骨を支え、瓦礫を防いだことによってできたものだった。 6月30日 デパート崩壊2日目 《チェ・ミョンソクさんの場合》 地下2階で生き埋めになっていたチェ・ミョンソクさんは、火災の煙で意識を取り戻す。閉じ込められてからは水分も取れなかったが、地上で消防隊が放水を行ったことで、水の一部が、彼のいた所にも流れ込んできた。しかし、その水に手が届かなかったため、靴下を脱ぎ、足元に溜まった水に浸した。そして靴下を足と手を使って口元に運び、のどの渇きを癒した。また激しい空腹を感じたときには、近くにあったダンボールを水に浸して食べたという。 《パク・スンヒョンさんの場合》 彼女がいた空間にも、火災の熱が伝わってきていた。その暑さのせいで体力と気力が奪われていく。だが、彼女は大好きな韓国の童謡を歌って気を紛らわした。あまりの暑さに耐えきれなくなった彼女は、着ていた服を全て脱ぎ、近くに転がっていた冷たいマネキンを抱きしめていた。 7月1日 デパート崩壊3日目 《ユ・ジファンさんの場合》 彼女はほとんど身動きが取れずにいた。しかし事故があった前日の夕食の時に交わした兄との会話を思い出し、励みにしながら、生きる希望を抱き続けていた。 7月2日 デパート崩壊4日目 この頃、救助隊の疲労もピークに達していた。いくら探しても、ガレキの下から生存者は見つからない。事故対策本部は、活動の重点を人命救助からガレキの撤去作業へと変更した。 7月6日 デパート崩壊7日目 《チェ・ミョンソクさんの場合》 彼は、なんとか自分が生きていることを知らせようと手元にあった鉄の棒で、コンクリートを叩いた。すると、叩いた数と同じ数が返ってきた。実は、その音の相手とはユ・ジファンさんだった。2人は実はすぐ近くに閉じ込められており、この偶然の行為によって、共に生きる勇気を持ち続けることができたという。 《ユ・ジファンさんの場合》 彼女の口の中は、割れるほどに乾ききっていた。だが、突き出た鉄筋から彼女の元へ水が流れ込んできた。彼女は手を伸ばしてそれを受け、少しずつ口に含んだ。実はこの頃、地上では雨が降っており、運よく彼女の元へも水が流れ込んできたのである。 7月9日 デパート崩壊11日目 もはや生存者がいる可能性はきわめて低いと考えられ、救助活動の効率化を図るため、クレーンやショベルカーなどの大型機械が導入されていた。 午前6時30分 救助隊員がコンクリートの塊の下に小さな隙間を発見。だが、生存者は見えない。しかし、その穴の奥には、チェ・ミョンソクさんがいた。そこで、彼は最後の力を振り絞り、鉄の棒を使ってコンクリートを叩いた。その音を聞いた救助隊員は、一本の棒を、その穴の中に入れ、誰かいたら棒を引っ張るように声をかけた。すると、その棒が引っ張られたのである。 午前8時10分 チェ・ミョンソクさん救出。デパート崩壊から実に230時間ぶりの奇跡の生還を遂げた。これまでの常識をはるかに超えた事故から11日目という救出劇に、世界中が沸き立った。 7月11日 デパート崩壊13日目 午後3時30分。 ユ・ジファンさん救出。285時間ぶりの奇跡の生還を遂げた。実は、2日前に救出されたチェ・ミョンソクさんから「近くに一人生存者がいる」という情報を得て、救助隊は付近を捜索し続けた。その結果、彼が救出された場所からわずか4メートルほど離れたところで、ユ・ジファンさんが発見された。 7月15日 デパート崩壊17日目 午前7時 パク・スンヒョンさん救出。377時間ぶりの奇跡の生還。彼女もまた、救助隊員の存在に気付き、最後の力を振り絞って、鉄パイプでドラム缶を叩き続けた結果、発見された。 常識では考えられない、10日以上を経ての生還劇であった。 |
【原因】 1400人以上の死傷者を出す大惨事となった三豊百貨店の崩壊事故の原因は、構造上の欠陥と管理者側の安全意識の欠如にあった。 まず、建物には次のような欠陥があったという 1. 粗悪なコンクリートが使われていた。 2. 元々4階建てのオフィスビルを、建設途中で5階建てのデパートに変更。その際、エスカレーター設置のため、 デパート中央部分の4本の柱を全て取り除き、弱い構造になってしまっていた。 その状況で、屋上で大型冷房装置を引きずって移動したという。コンクリートの強度はさらに下がった。そして大型冷房装置の重さに耐え切れず、屋上部分が崩壊。続いて支える柱が少ないため、5階部分が崩壊。下の階に行くほど重さが増していき、結果、地下まで一気に崩壊した。 また、天井のひび割れ発見にもかかわらず、早期段階で対策を行わなかったことが大惨事を招いた。専門家の警告にも関わらず、閉店しなかった経営陣の方針に問題があったと言える。 |
【対処】 デパート崩壊事故発生後、救急隊が出動し、救出作業を行う。救助活動の効率化を図るため、クレーンやショベルカーなどの大型機械も導入。 この様な災害で生き埋めになった場合、3日、すなわち72時間を超えると生存率が一気に下がるという。そして、その理由には、脱水状況と感覚遮断(視覚・聴覚など外部からの感覚刺激が遮断された状況)の2つがあげられる。 通常、人間の体は、何もしなくても、汗などで1日に約1.5リットルの水分を排出している。つまり、これと同量の水分を補給できなければ、体内の水分量は次第に減っていくことになり、その後、死に至るという。また、感覚遮断により精神状態がおかしくなると、普段とは比べ物にならないほど強烈なストレスが脳にかかり続け、心筋梗塞や狭心症で死に至る場合がある。これらの要因のため、生き埋めになって閉じ込められた人間の生存の可能性は3日、すなわち72時間がデッドラインとされている。にもかかわらず、常識では考えられない、10日以上を経ての生還が達成された背景には、個々の生還者の対処が優れていたことがあげられる。以下は、それぞれの対処方法である。 ◎3人が生還できたポイント @身動きできないことで、逆に余計なエネルギー消費が抑えられていた A放水や雨水などによって水分が補給できた B感覚遮断による恐怖感を抱かずにいられた 以上、この3点が特に重要だったと考えられる。 ◎今回彼らが感覚遮断による恐怖感を抱かずに済んだ理由 《パク・スンヒョンさんの場合》 ・寂しさを紛らわそうと、大好きな歌を口ずさんだ ・そばにあったマネキンを抱いた →知らず知らずのうちに恐怖感が高まることを防いでいたと考えられる。 《チェ・ミョンソクさんの場合》 ・ダンボールを水に浸して食べていた。 →この食べるという行為は、恐怖感を軽減させる効果があるという。 《ユ・ジファンさんの場合》 ・家族のことを思い浮かべながら救出を待っていた →楽しい経験を思い出すことで恐怖感を軽減させたと考えられる。 さらに、チェ・ミョンソクさんとユ・ジファンさんの2人は鉄の棒とコンクリート瓦礫を叩き、コミュニケーションをとっていた ことで、相手の存在が確かめられ、恐怖感を減らすことができた。 |
【対策】 聖水大橋の崩壊事故、三豊百貨店の崩壊など、大規模な事故が起きたことを契機として1995年7月に新規に災難管理法 が設けられ、災難に関し、より効果的な防止・救済対策が定められた。 |
【後日談】 崩壊事故から8年 チェ・ミョンソクさんは現在・・・ 二度とこのような欠陥のある建物が造られることのないよう、建築関連の勉強をし、 建築現場の監督として働いている。 ユ・ジファンさんは現在・・・ 結婚して子供が2人でき、幸せな生活を送っている。 パク・スンヒョンさんは現在・・・ 28歳、ボランティア活動をしている。 |
【知識化】 小さな失敗の繰り返しが大惨事を招く。 計画よりも高層なビル建築、ビル建築材料費の削減、不具合発見に対するスローな対処等が重なり、 今回の崩壊事故を招いたと言える。ひとつひとつの事項に対し、慎重に行動する姿勢が大切だと言える。 また、万が一、このような惨事が発生した場合においても、災害に対する社員トレーニングを行い、生き 残るための対処法等を学習させるのも有効だと思われる。 |
【情報源】
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