【動機】本事例は、史上最悪の海抜事故となったタイタニック号において、船長を始めとする造船基の ホワイト・スター・ライン社(White Star Line)の安全に対する姿勢が全面的に問われる結果となった事例である。そして、 この事故を期に船舶の航行安全に関する国際会議が開催され、「海上人命安全条約(SOLAS条約)」が採択された。 |
【日時】氷山に衝突した時刻は1912年4月14日午後11時40分頃。沈没した時刻は翌日午前2時20分頃に沈没 【発生場所】アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンの真東1610Km、ニューファウンドランド、 セント・ジョンズ沖604Kmの海底3773m。(北緯41度46分、西経50度14分) 【死者数】1522名と推測されている 【負傷者数】不明 【物的被害】約7,500,000ドル以上 (上図:タイタニック号の航海地図,Sydrose提供) |
【事象】 1838年に初めて北大西洋航路に蒸気船が登場して以来、同航路においての定期客船は着実に発展を遂げていた。 そして、20世紀の初頭、大西洋航路では大型豪華客船による横断の時代が訪れ、それは絶頂期を迎えつつあった。 大型豪華客船の建造を競って行っていた英国のホワイト・スター・ライン社とキューナード・ライン社(Cunard Line)の間では激しいスピード競争が展開され、最速記録の船はブルーリボン記録ホルダーとして称えられてきた。そのような時代の中で、タイタニック号はホワイト・スター・ライン社の威信を懸け、当時の最新鋭の技術を駆使して造船された世界最大級の豪華客船であり、世間では「practically unsinkable」(沈みようがない船)といわれていた。 1912年4月10日、タイタニック号は英国、サウサンプトン(Southampton)よりアメリカ合衆国、ニューヨークへ向けに処女航海に出た。同船はその航海中、幾度かに渡りその周辺にて航海中であった船舶より氷山の警告を受け取るが、それを無視するように最高速度で航海を続ける、そして、航海4日目の14日午後11時40分、ニューファウンドランド、セント・ジョンズ沖(St. John's)で氷山に接触、午前2時20分に沈没した。この事故における死者は1500人を超えるといわれ、海難事故としては世界で最悪のものとなった。 (タイタニック号とそのライバル船。1914年に第1次大戦が勃発したために、 これらの客船は栄光の場を奪われることとなる.図提供:粟田亨,http://ww3.tiki.ne.jp/%7Eawata-a/sub1/ rivals.htmより引用) |
詳しい【経過】については
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【背景】 1911年6月21日、タイタニック号の姉妹船でほぼ同じ構造を持つオリンピック号が、タイタニック号よりも一足先に処女航海に出た。オリンピック号の船長は、その後タイタニック号にて船長を勤めたスミス氏であったが、オリンピック号は出港の際にタグボートのハーレンベック号を巻き込みそうになり、ハーレンベック号は危うく沈没事故を起こしそうになっている。更に、その同年9月20日にも、スミス船長が指揮するオリンピック号が巡洋艦ホークと衝突事故を起こした。この事故で同船はひどい損傷を受けたけ、11月末まで正常航行は不可能となった。その復帰直後の1912年2月24日、オリンピック号は再び障害物に衝突する事故を起こしスクリューの一つが脱落してしまい、処女航海からの不祥事続きで無保険状態になっていた。そのような中で、タイタニック号はスミス船長の指揮のもと同年4月10日に処女航海に出た。 |
【後日談】 1998年、ジェームズ・キャメロン監督の映画、「タイタニック」が公開され大きな反響をよんだ。 「タイタニック」はその年のアカデミー賞に輝いている。 |
【対処】 タイタニック号の惨事をきっかけとして、船舶の航行安全に関する国際会議が開かれ、 「海上人命安全条約(SOLAS条約)」が採択された。現在のSOLAS条約においては、 沈没・火災の防止や事故発生時の確実な救命を図るよう船舶の構造面、消防、救命、 通信などの設備面、乗組員の訓練面などについて細かい規定が整備された。現在就航 している旅客船の安全対策は次のとおりになっている。
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【知識化】 タイタニック号の大惨事は様々な要因が重なったことによるものだった。また、「Practically Unsinkable」を信じきっていた乗務員を始め乗客達によって適切な行動が取られなかったことが惨事を拡大したといっても過言ではない。そして、その背景にはタイタニック号の造船を行ったホワイト・スター・ライン社が、ライバルであったキューナード・ライン社との競争のために、航海において安全性よりも名誉を重視した結果でもあった。この事例はスミス船長を始めとしてとして、造船基のホワイト・スター・ライン社(White Star Line)の安全に対する姿勢が全面的に問われる結果となった事例であった。そして、この事故を期に船舶の航行安全が大きく向上したといわれている。 |
【情報源】
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