【事例発生日付】1964年7月14日 【事例発生場所】東京 品川 勝島 【結果】死者 19名 負傷者 114名 【経過】    野積されていたアルコール湿硝化綿入りドラム缶 (4層横積み11箇所計1034本、消防法に定められた指定数量以上)が、 40〜100日間に温度の上昇・下降を繰り返すうち、ドラム缶内上下の温度差により 蒸留作用が起きて上部の硝化綿が乾燥(推定)。 10日、大井消防署の査察で、 多数の違反貯蔵危険物を発見、大量に野積みされていた硝化綿に対し口頭で注意。 14日、快晴・高温(最高気温32.5℃)の条件下で、 ドラム缶内部の硝化綿温度異常上昇(最上層で60〜70℃)し、自然分解促進(推定)。 21:56〜57、103号倉庫南側の野積み箇所で、 乾燥した硝化綿内で分解熱蓄積し自然発火(北川徹三らによる推定。 渡辺貞良らは乾燥した硝化綿は50〜100℃で自然発火しないという実験結果を示している)、 爆発的に燃焼。ドラム缶の蓋が吹き飛び、硝化綿放出燃焼。 大量のドラム缶が次々に発火、爆発、飛散。 8号倉庫延焼、飛来したドラム缶が103号倉庫屋根突破り延焼。 22:55、旧10号倉庫(消防法による危険物貯蔵所ではない)に延焼、 消防法上の危険物と知りながら保管料を取って貯蔵していたメチルエチルケトンパーオキサイド (MEKPO、有機化酸化物、パーメックN及びS、18kg入り容器94個、約1000kg)が突然大爆発(爆轟)。 倉庫守衛から、7、8、10番倉庫は紙とタバコ、103番倉庫と野積みドラム缶は硝化綿、 12番(旧10番)倉庫は雑品と缶詰(実際はMEKPO)、との情報を得て、 消火活動により延焼防止の態勢が整い始めた時、12番倉庫の予期しないMEKPO爆発により、 消火活動中の消防署員18人・団員1人が爆風と倒壊建物の下敷きになって死亡、 消防署員80人・団員12人・取材記者3人・一般人22人負傷。 (事故後、倉庫の守衛長(68)自殺。) 15日1:38、鎮火。 【背景】    宝組: 1939年設立。本店所在地の台東区東上野で宝ホテル経営。 土木建築請負、水産食料品加工販売、海運、倉庫業などに事業拡張。 1958年10月頃、勝島で倉庫業開始。 【総括】    宝組の勝島倉庫で、14号倉庫内に貯蔵していた硝化綿を倉替えして 他会社に貸すことになり、他に適当な場所がないため倉庫群に囲まれた空地 (東西約29m南北約38m、約1100平方m、会社幹部決裁で造成、消防法による危険物貯蔵所ではない)に、 会社幹部(副社長兼倉庫部長と倉庫部専務)了解のもとに野積みにした。    同社では、割増し料金を取って収容能力を超える危険物を預かり、野積みにしたり 一般倉庫に貯蔵したりしていた。    消防の査察時には野積み物にシートをかけてごまかしていた。。 【後日談】    1969年6月30日、東京地裁は、株式会社宝組に罰金5万円、 副社長兼倉庫部長に懲役8月執行猶予3年、倉庫部担当専務取締役に懲役7月執行猶予3年(以上消防法違反)、 倉庫業務課長・同代行・危険物係員の3人に禁固1年2月(以上消防法違反・業務上失火・業務上過失致死傷) の判決を下した。    消防法違反は、被告らが共謀して指定数量以上の硝化綿を無許可で危険物貯蔵所でない空地に野積みし、 MEKPOを危険物貯蔵所でない倉庫に貯蔵したことによる。    業務上失火については、北川徹三横浜国大教授らの鑑定を採用し火災は野積み硝化綿の加熱・乾燥による 自然発火によって起きたと認定、自然発火は予見可能であり、これを避け爆発の災害を未然に防止すべき 業務上の注意義務を怠ったとした。    業務上過失致死傷は、MEKPOの爆発危険性は予見可能であり、その存在を知ることが困難だった消防職員に いち早く通報して人身災害事故を未然に防止すべき業務上の注意義務を怠ったとした。    1974年5月29日、東京高裁は、副社長兼倉庫部長と専務取締役について 控訴棄却とし、業務課長・同代理・危険物係員の3人については、 「乾燥したものであっても50〜100℃で自然発火しなかったとする実験結果を基礎とする渡辺貞良北大名誉教授 らの鑑定により北川鑑定の信用性に疑いが生じ、それを解消するに足る資料がない以上、 自然発火を認定した一審判決には事実誤認があり、第三者による放火の疑いもあると考えられるが、 原因を確定できない」として、業務上失火罪は無罪とし、一審判決を破棄。 改めて消防法違反と業務上過失致死傷で禁固1年2月執行猶予3年の判決を下した。    1976年11月17日、最高裁は上告を棄却。 以上 |