【事例発生日付】1955年6月〜8月 【事例発生場所】西日本 【事例概要】    森永乳業徳島工場で、原乳の乳質安定剤 (酸度安定剤)の第二リン酸ソーダを検査なしに使用しため、 粉ミルク製造工程で、「森永ドライミルクMF缶」にヒ素が混入。 西日本で、衰弱死や肝臓肥大を起こす乳幼児が続出。 世界最大級の食品公害となった。(死亡130名、発症12,001名) 【事象】    西日本で、「森永ドライミルクMF缶」の 粉ミルクを飲んだ乳幼児が、衰弱死や肝臓肥大を次々に起こした。 世界最大級の食品公害となった。(死亡130名、発症発症12,001名) 【経過】    1953年秋、 新日本軽金属清水工場で、ヒ素とリン酸を大量に含む物質が取出され、 静岡県衛生部が厚生省に照会したが、同省は「毒劇物取締法上のヒ素製剤 には該当しない」と回答、出荷可能となった。 新日本軽金属清水工場で生産された大量のヒ素を含む第二リン酸ソーダを、 新日本金属化学が購入し、さらに、丸安産業を経て松野製薬に渡った。 松野製薬は、この第二リン酸ソーダを生駒薬化で脱色精製させ、協和産業に納入。    1955年4〜8月、 森永乳業徳島工場で、粉ミルク製造において、 原乳の乳質安定剤(酸度安定剤)として使用するため協和産業から3回にわたり 「工業用第二リン酸ソーダ」を購入した。 森永乳業徳島工場で、粉ミルク製造工程でこの第二リン酸ソーダを使用し、 「森永ドライミルクMF缶」を製造した。    6〜8月、 西日本で、「森永ドライミルクMF缶」のミルクを飲んで、 衰弱死や肝臓肥大を起こす乳幼児が続出。(死亡130名、発症12,001名)    1956年6月9日、 厚生省発表では、死亡130名、発症12,131名の 世界最大級の食品公害となった。 【原因】
   森永乳業徳島工場では、粉ミルクの製造工程で使う乳質安定剤の 「第二リン酸ソーダ」を検査せず使用した。    森永乳業徳島工場への乳質安定剤の供給業者である協和産業で 毒性検査が抜けた。 食品工場への納入ということは、判っていたはずである。    そもそも、原料について厚生省が「毒劇物取締法上のヒ素製剤 には該当しない」と回答したことが原因で、出荷可能となり 流通してしまった。 8月23日、 岡山大学小児科教室の浜元教授らによって、医学的分析の結果、 この人工栄養児の間で発生した病気の原因はヒ素による中毒であると公表した。 8月24日、 厚生省は製品の差し押さえを岡山県衛生部に指示。 その後、和歌山県や国立衛生試験所も森永乳業徳島工場製の粉ミルクからヒ素を検出した。 9月1日、 厚生省、中毒患者の把握指示。 10月6日、 厚生省、日本医師会長に「診断基準並びに治療指針」作成依頼。 その結果、10月9日、 「西沢委員会」発足。 10月22日、 厚生省の委嘱により学識経験者5人からなる「5人委員会」が発足。 補償に関する意見書作成に着手した。 11月2日、 西沢委員会「治癒判定基準、後遺症治療指針」を厚生省に答申。 11月8日、 上記を各県に送付。 12月15日、 5人委員会が「死者25万円、患者1万円」の補償案を公表。 【対策】    メーカ側の対策内容は不明である。 添加物そのものが安全でも、添加物に有害な不純物が含まれると危険という観点から、 食品衛生法の一部が改正されて、添加物の成分規格を収載した「添加物公定書」を 作成する規定が設けられ、昭和35年に「第1版添加物公定書」が作られた。 【背景】    乳児にとって、免疫物質が多く含まれていることから母乳が最良と言われている。 しかし、母乳の分泌量が少なかったり、その他の理由で母乳を与えることが出来ない人もいる。 そこで、人工栄養として「調整粉乳」いわゆる育児用ミルクが利用される。    「調整粉乳」は昭和25年に、母子愛育会が小児保健部会案として乳児の「人工栄養の方式」 を発表したことから端を発した。    昭和26年には「乳および乳製品の成分規格等に関する省令」(乳等省令)が公布され、 厚生大臣の許可を得て「調整粉乳」に乳幼児に必要な栄養素を添加することが認められた。 これを受けてビタミンを強化したり牛乳たんぱく質の消化を良くした製品が発売された。 この時期の調整粉乳は全脂粉乳に糖などの不足する栄養素を添加したものであった。    昭和30年代は日本の経済が急激に回復する中で、正しい栄養摂取のあり方、母乳成分の研究、 新しい技術の導入などで「調整粉乳」に加えてより母乳に近づけるため、 牛乳の成分そのものの置換を認める規格が昭和34年、(乳等省令)「特殊調節粉乳」として制定された。 また、学校給食にも当時の牛乳不足から脱脂粉乳が使われはじめた時期でもあった。 |
【知識化】
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【総括】    水俣病やサリドマイド過といった公害や薬害が騒がれる以前であり、 「製造物責任」という言葉も無かった時代であった。    当時の5人委員会の意見書では「ほとんど後遺症は心配する必要はないといってよい。」 との判断であり、一見落着したかと思われた。    ところが、1968年に保健婦・養護教諭らが大阪大学医学部衛生学教室の丸山博教授の指導で 被害児の家庭を訪問した結果、後遺症の存在の可能性が指摘され、 事故発生後14年目の1969年に社会問題として再び大きく取上げられることとなった。    著名な弁護士中坊公平氏が国・森永を提訴した被害者の弁護団長であった。 その中坊氏が被害者の家を訪問したときに、森永や国の悪口を言わず、 むしろ「乳の出ない女が母親になったのが間違い」などと自分たちを責めているとし、 損害賠償額では救済されないとのことに気がついたとしている。 以上 |