【概要】 男鹿半島の北西約70kmでM7.7の地震が発生し、地震後、 津波警報発表の前後に大きな津波が日本海沿岸を襲い、 日本海沿岸の8道府県の広い範囲に被害(死者は100名にものぼる)をもたらした。 一方、地震による被害は秋田県と青森県に集中し、死者4名の他建物、道路、 鉄道、堤防に被害があり、なかでも地盤の液状化が各所で発生し、被害大きくした。 地震・津波により死者104名、住家全半壊3,049棟、船舶沈没・流出706隻などで、 被害総額は約1,800億円にも達した。 【日時】 1983年5月26日 【場所】 秋田県および青森県の日本海沿岸 【事象】 いまから20年前の5月26日12時ごろ、男鹿半島の北西約70kmで、 M7.7の地震が発生し、地震後に大きな津波が日本海沿岸を襲い、 日本海沿岸の8道府県の広い範囲に被害(死者は100名にものぼる) をもたらした。地震による被害は秋田県と青森県に集中し、 死者4名の他建物、道路、鉄道、堤防に被害があり、なかでも地盤の液状化が各所で発生し、 被害を大きくした。地震・津波により死者104名、住家全半壊3,049棟、船舶沈没・ 流出706隻などで、被害総額は約1,800億円にも達した。 【経過】 1983年5月1日頃から、男鹿半島の北西沖で地震が発生し、5月14日にはM (マグニチュード:地震の規模)5.0の地震が発生し、最大震度は、秋田、 盛岡で震度1であった。また5月22日にはM2.3およびM2.4の地震も発生していた。 5月26日12時00分、男鹿半島の北西70kmでM7.7の大地震が発生した。 青森県深浦町・むつ市、秋田市で震度5の強震、青森・八戸で震度4の中震を観測したほか、 北海道から関東、中部、近畿、中国地方にかけて広い範囲で有感となった。 図1は、震央と震度分布図である。 仙台管区気象台は、12時14分に東北地方の日本海沿岸と陸奥湾に 「オオツナミ」の津波警報を発表したが、深浦、男鹿などではすでに津波が襲っていた。 地震・津波により死者104名、住家全半壊3,049棟、船舶沈没・ 流失706隻など大きな被害が生じ、被害総額は約1,800億円に達した。被害は、 日本海側沿岸の8道府県の広い範囲に及んだ。死者のうち100名は津波によるものであった。 地震による直接被害は秋田県と青森県に集中し、死者4名の他、建物、道路、鉄道、 堤防などに被害があり、なかでも地盤の液状化が各地でおこり、被害を大きくした。 【原因】 直接の原因である地震は、日本海東縁部に新しく出来つつある、 ユーラシアプレートと北米プレートの境界で、これらのプレートの押し合いによって、 発生したためと考えられる。地震による建物・道路・鉄道・ 堤防などの被害はある程度やむを得ないが、問題は、犠牲者104名の内の100名が、 津波による犠牲者だったことである。 仙台管区気象台は、12時14分に津波警報を発表したが、深浦、 男鹿などではすでに津波が襲っていた。予想以上に早く津波が到達したことについては、 地震による海底の地盤変動が海岸に近い所までおよんでいたためと考えられる。 津波による犠牲者が多くなった要因については、 東北大学大学院工学研究科で行なった「津波来襲時に生死を分けた要因」 の分析が興味深いので紹介する。それによると、この地震では、表1のように、 津波による犠牲者100名の中で港湾工事関係者が41名、釣り人が17名、 遠足の小学生が13名などであった。
体験談および新聞記事からの210名分(生存101名、遭難100名) のデータを抜き出し、地震時および津波来襲時における個人の行動を特定し、 地震発生時の場所、地震発生時何をしていたか、警報(地震情報)を聞いたか、 避難を開始した時期、波にのまれたか、生死、被害波到達時間、警報の出された時間、 その他当時の状況、について整理し、地震発生から救助・遭難までの流れと、 それに関わった要因を、図2でまとめている。 生死を分けた要因として、第1段階の「波にのまれてしまうまで」では ‘津波到着までの行動’および‘周囲にいる人の対応’そして、 第2段階の「波にのまれた後」では‘救助されるまでに、体力が維持でき、 浮遊できたかどうか’、の影響が大きいとしている。 避難が遅れた要因としては、以下のとおりである。
地震発生後、東北大学理学部では、余震対策として、 男鹿および五城目で臨時観測を行ない、既設の微小地震観測網を強化した。 さらに余震域の拡がりを考慮して、東北大学および弘前大学では、 震源域に近い弘前大学の岩崎、三厩の二観測点の地震波形データを電々公社臨時専用回線で、 秋田経由で仙台迄伝送し、両大学の観測網データの一括処理を可能にした。 また、地震発生後間もなく、仙台管区気象台と青森地方気象台は、 現地調査班を編成し、日本海側沿岸の津波の実地調査を行った。 北の小泊から順に番号を付して津波の方向、最高水位などを見易く図示したのが図3である。 このように場所によって津波の高さにかなりの差が表われたが、これは、 波向に対する海岸あるいは湾内の形状、そして水深、水深の勾配、湾の固有振動(セイシュ) などに影響される。例えば小泊漁港は小泊半島の北側に面し、下前漁港は南側に面しており、 同じ北西の方向から津波の襲来があれば津波の高さに差のあることは当然考えられよう。 鰺ケ沢漁港は他地域に較べ津波の高さが平均的に低くなっている。 これは港内における防波堤などの整備が津波を弱めた大きな要因と推定される。 【対策】 対策の一層の充実を図るため、1983年6月、総理府、警察庁、国土庁、 海上保安庁、気象庁、郵政省、消防庁の7省庁により、「津波警報関係省庁連絡会議」 が設置され、同年7月15日「沿岸地城における津波警戒の徹底について」 申し合わせが行なわれた。 秋田県では、町村における情報収集および伝達システム整備等、 津波を考慮した地震対策の整備を進めることになった。 本災害のデータを参考にライフライン施設の液状化対策や復旧計画を策定した。 【総括】 今回の大地震は日本海側に発生したものとしては過去最大の規模となり、 また、この地域内で震度5を観測したのは1968年5月16日の十勝沖地震(M7.9) 以来のものである。気象庁はこの地震を「昭和58年(1983年)日本海中部地震」 と命名した。 この地震の被害は、津波による被害が大きかったことが特徴で、 死者104名のうち100名は津波によるものであった。これは、地震発生後の、 人々の行動に起因する部分が多い。 しかし、5月1日ごろからの前震という本震の前触れに対しての、 危機管理が不十分だったのではないか。ただ、これまで日本海側では、 地震による津波の被害はなく、「地震が来たら浜へ逃げよ」とも言われていたりしており、 適切な対応は困難であったと思われる。 【知識化】 津波来襲時に遭難したか、生存できたかの違いは、自分の状況判断と行動、 および周囲の人たちの行動である。この災害からは、以下のことが学べる。
この海域(東北地方の西方海域)において、 昭和の年代に入ってからの顕著な地震は、表2のように3回発生しており、 何れも弱い津波を伴っているが、被害は殆んどなかった。 また、同じ日本海でも東北地方以外の海域で発生したものとして1964年6月16日の新潟地震 (M7.5)があるが青森県への影響はなかった。 また、1978年9月頃から、青森県西海岸の岩崎村に発生した群発地震は、 1979年秋頃、ほぼ終息した。この地域では群発地震活動は非常にまれであるが、 元禄7年(1694)、宝永元年(1704)と相次いで、青森、 秋田の日本海沿岸に発生した大地震の十数年前にも、 大間越付近で群発地震活動があった。これらのことも考慮して、 弘前大学では群発地震活動が終息した後も、この地域の観測を強化することにし、 その一環として、岩崎村の沖合約40キロメートルにある久六島に、 地震計を設置することを計画し、1980年現地調査を行なった。しかし、島は波浪が強く、 観測の維持に多くの困難があることが判明したので、地震観測は断念していた。 【引用文献】 日本海中部地震:http://www.bousai.pref.aomori.jp/jisinsouran/nihonkai/select_menu.htm 国土庁、防災ホームページ:http://www.bousai.go.jp/kazan/sinkasai/s311.htm 〃 、我が国の地震対策の変遷(未定稿): http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/taisaku/8/sankou1.pdf 秋田気象台、防災メモ、昭和58年(1983年)日本海中部地震から20年: http://www.sendai-jma.go.jp/tidai/akita/pdf/2003_4.pdf 東北大学大学院工学研究科 金田資子他:津波来襲時に生死を分けた要因− 日本海中部地震津波を事例として− 土木学会東北支部講演概要 |