【概要】 三陸沖約150kmを震源とするマグニチュード8.5という巨大地震によって、 三陸のリアス式海岸の特殊な地形と満潮時に重なったため、大きな津波が三陸沿岸に襲来、 村落を飲み込んだ。最大の津波高さは38.2mであった。死者は22,066人、 流失家屋は8,891戸の大きな被害をもたらした。 【日時】 1896年6月15日 【場所】 東北地方三陸沿岸沿い 【事象】 弱い地震を感じたのちに、津波が三陸沿岸に襲来、 最大の津波は38.2mであった。死者は22,066人、流失家屋は8,891戸の大きな被害をもたらした。 写真1、図1はその被害状況である。 【経過】 1896年(明治29年)6月15日は、 日清戦争に従軍して凱旋した兵士たちを迎え、三陸の村々で祝賀式典が開かれ、 兵士を迎えた家では宴もたけなわだった。またこの日は旧暦の端午の節句であった。 男の子がいる家では親族が集まって祝い膳を囲んでいる最中の午後7時32分、 小さな揺れを感じた。この地方は3月頃から小さな地震が続いていており、 井戸水が枯れたり、水位が下がったり、いわしの大群が連日押し寄せマグロの大漁が続くなど、 沿岸の漁村では例年と違う不思議な現象が起こっていた。 その日も、朝に弱い地震があり、何回も続いた後にこの地震が発生して、 それは5分間ほど揺れた。そして、その10分ほど後にもまた揺れた。 が、春以来の地震の中でも小さいほうであったので誰もあまり気にもしていなかったし、 震害もなかった。(しかし、実際はその地震は三陸沖約150kmを震源とする、 マグニチュード8.5という巨大地震であった) ところがこの地震発生後35分たった午後8時7分に、 津波の第一波が三陸沿岸に襲来、続いてその8分後の午後8時15分に津波の第二波が襲った。 第一波で残った家もすべてさらって流し去った。その時間はちょうど満潮と重なっていたため、 一段と波高を高くし、リアス式海岸が波のエネルギーをさらに高めて襲来するという、 悪条件が重なった。 最初に海の異変に気づいたのは、魚を荷揚げしていた、 海産物問屋の若者たちであったといわれる。海の遠雷のような怪音が聞こえ、 船が大きく傾き、いままで海底にあった岩がむき出しになるのが見えたという。 最大の津波は綾里村で実に38.2mという想像を絶する高さであった。 普通津波での死者は溺死と思われるが、綾里地区の「明治三陸大津波伝承碑」の碑文には 「綾里村の惨状」「綾里村の如きは、死者は頭脳を砕き、或いは手を抜き、 足を折り名状すべからず」と書かれているように、犠牲者は打撲が多く、 原型を止めないほど遺体が損傷する悲惨なものである。 地震の揺れによる被害はまったくないにもかかわらず、 これほどの津波が襲うと誰も考えていなかったのである。 また、この地震でハワイにも2.4m〜9.1mの津波をもたらせ多くの被害を出した。 この津波で、死者は22,066人、流失家屋は8,891戸に上った。 【原因】 三陸沿岸に津波来襲回数が多いのは、海岸特有の地形によるものである。 北は青森県の八戸市東方の鮫岬から宮城県牡鹿半島にわたる三陸沿岸はリアス式海岸として、 日本で最も複雑な切り込みの多い海岸線として知られている。海岸には山肌がせまり、 鋭く入り込んだ湾の奥に村落が存在する。沖合いは世界有数の海底地震多発地帯で、 しかも深海のため、地震によって発生したエネルギーは衰えずそのまま海水に伝達し、 大陸棚を伝って海岸線とむかう。三陸沿岸の鋸の歯状に入り込んだ湾はV字形をなして、 太平洋に向いている。このような湾の常として、海底は湾口から奥に入るにしたがって、 急に浅くなっている。巨大なエネルギーを秘めた海水が、湾口から入り込むと、 奥に進むにつれて急激に海水は膨れ上がり、すさまじい大津波となってしまうのである。 また今回は、満ち潮の時刻と重なったことも大きな要因である。 図2は三陸地方の海岸の地形を示す。 犠牲者が多くなったのは、地震の体感程度が小さく、 これほど大きな津波とは誰も考えず、高所への避難をしなかったためであった。 【対処】 大津波の来襲した翌日の6月16日午後3時、災害発生の電報は東京の内務省に届き、 内務大臣はその旨を明治天皇に上奏するとともに内務省から各省に緊急連絡されて、 本格的な救援準備に着手した。天皇は、侍従東園基子爵を慰問使として派遣、 災害地で生存者を激励して廻った。政界・官界からも視察員が派遣され、 仙台の第二師団では、津波の報と同時に多数の軍医を災害地に急行させ、 治安維持のため憲兵隊も派遣した。また工兵隊員多数も死体処理等のために出動、 海軍は軍艦3艦を派遣し、海上に漂流している死体の捜索にあたった。 日本赤十字や福島赤十字支社、看護婦会から派遣された医師、看護婦、 看護人たちは日夜負傷者の治療に奔走した。 【対策】 特に津波災害防止法はとられなかった。 本津波の37年後の1933年に再び大津波がこの地域を襲い、 ようやく各被災県が中心になって、防潮堤、防潮林、安全地帯への避難道路等が新設され、 災害防止の趣旨を徹底するため、県庁から「地震津波の心得」 というパンフレットが一般に配布された。 それには津波を予知する方法として、
これまで小さな揺れの地震でこれほど大きな津波が襲った例がなかった。 以来、地震による震害より津波被害の多い災害を「地震津波」と称するようになった。 【知識化】 地震にしても津波にしても過去の事例にだけとらわれていると危険である。 常に最悪を考えて行動する必要があると、この災害は教えてくれている。 大災害にも小さな予兆(この場合は小さな地震)があり、 ハインリッヒの法則がこの場合でも当てはまるのは興味深い。ただし、 現在も地震の予知方法はまだ確立されていないが、津波予報はかなり進歩している。 【背景】 本事故までに、三陸沿岸を襲った津波を調べてみると、 1611年(慶長16年)、1616年(元和2年)、1651年(慶安4年)1676年(延宝4年)、 1677年(延宝5年)、1687年(貞享4年)、1689年(元禄2年)、1696年(元禄9年)、 1716〜1735年(享保年間)、1781〜1788年(天明年間)、1835年(天保6年)、 1856年(安政3年)、1868年(明治元年)、1894年(明治27年) とおびただしい頻度で発生していた。 過去の津波による被害としては特に1856年(安政3年)の大津波が大きかった。 このときは今回の災害時と同様に、大津波の襲来前はイワシやマグロの大漁であったという。 【参考文献】 吉村 昭著:海の壁 中公新書(1970) 社団法人 日本損害保険協会:津波防災を考える、想像しにくい津波の実像 |