【概要】
鉄道連絡線洞爺丸(写真1、図1、3,899トン)
が台風15号の接近するなか函館港を出航したが、
予想を超える港外の強風と大波に直面したので、函館湾内で投錨仮泊した。
その後大波による浸水のため蒸気機関の停止を招き、
夜10時過ぎに函館湾七重浜近くで横転転覆座礁し、
死者1,172名の大惨事となった。台風の未曾有の速度と強風および強風への当時の対応方法が、
原因であった。
【日時】
1954年9月26日
【場所】
北海道函館湾七重浜付近
【事象】
鉄道連絡線洞爺丸が台風15号の接近するなか函館港を出航したが、
予想を超える港外の強風と大波に直面したので、函館湾内で投錨仮泊した。
その後大波による浸水のため蒸気機関の停止を招き、夜10時過ぎに、
函館湾七重浜近くで、横転転覆座礁し、死者1,172名の大惨事となった。
【経過】
- 台風15号は、26日午前3時に鹿児島市付近にあった。
一旦日本海に出て海上で発達しながら速度を増し、
常識はずれの時速100kmの速度で北上し(図2)、
26日午後8時に函館西方海上に到達した。この後、急に速度を落としたが、
さらに発達して956mbarの強い勢力となり(図3)、
函館湾は瞬間最大風速57mを超える突風に襲われた。
日本海で発達した波が、直接函館湾に入ってくるだけでなく、
突風が湾の南側に開いた湾入口側から吹き込んできた。
- 洞爺丸船長は、上記の台風の急速北上と突然の減速とを理解できなかったことに加えて、
午後5時過ぎに現れた函館市近傍の無風晴天と気圧の変動状態から、
台風の目が通過したと考えた。実際、目的地の青森の天候も比較的穏やかであった。
しかし、函館港の中では南南西の10m/s程の弱い風であったが、
防波堤の出側では、20m/sを超える突風が吹いていた。
船長は、台風の目が東側に去ったのだから、今度は風向きが陸から吹く風に変わり、
また風も弱まり航海に支障がなくなるはずである、という判断のもとに、
午後6時39分に1,220人の乗客、111人の乗組員、41人の公務職員、計1,331名を乗せて、
桟橋を出航した。
- 出航後函館港の防波堤を出てからすぐに、40m/sを超える強風と、
日本海で発達し函館湾に入ってきた大波に直面した。
航海できる状態ではないと判断し、悪天候時の処置方法として、
当時の連絡船では常識的な方法である湾内での投錨仮泊法を選択した。
錨を降ろし船首を風上の南方向に向けるため、微速直進状態にした。
- しかし、さらに勢いを増した台風の瞬間最大風速57m/sを超える強風に押されて、
錨を支点として振り子のように左右に振られながら、次第に強風に押し流されて海岸に接近した
(図4)。鉄道連絡船特有の貨車を乗せる後部扉の隙間から、大波による浸水が始まり、
これが機関室に流入して機関停止を招いて操船の自由を失い、ついに座礁した。
この結果、乗客と乗組員他あわせて1,172名が犠牲となった(写真2)。
犠牲者が増加したのは、このような事態を想定できず、
乗客の避難誘導が遅れたことも影響していると思われる。
この間、函館湾内に投錨仮泊した他の連絡船でもほぼ似たような状況をたどり、
結局下記の4隻が沈没し乗組員あわせて275名が犠牲となった。
- 日高丸 連絡貨物船 2,932トン 沈没
- 北見丸 連絡貨物船 2,928トン 沈没
- 十勝丸 連絡貨物船 2,912トン 沈没
- 第十一青函丸 連絡貨物船 2,851トン 沈没
なお、洞爺丸の僚船である連絡船大雪丸は同じように函館湾に一旦投錨仮泊した。しかし、
強風に流されて漂流する他の船との接触を防止するために、再度錨を上げて湾外に脱出したが、
かえってこれが幸いし、沈没を免れた。
【原因】
- 当時、本州と北海道を結ぶ主要手段には青函連絡船しかなく、
重い運行責任があった。しかしこれが、
運行の可否決定の全権限を有していた船長の出航判断に、
多大の影響を与えたと考えられる。
- 台風の速度が時速110km/hと異常に早かった。このため当時の気象観測では、
この状況に正確に追随できる台風情報が出せなかった。さらに当時函館近傍では、
地域的に台風の目が通過したかと思わせるような気象状況が発生した。一方、
台風は函館の西方海上にきて急激に減速しながら発達し風速が増したため、
予想以上の強風が発生したうえに、強風にさらされる時間も長くなり、
被害を大きくすることになった。また函館港近傍でさえ、風速や波浪などの条件が、
港内と港外で大きく異なっていた。
洞爺丸の船長はベテランでありかつ気象判断に詳しく“天気図”とあだ名されるほどであった。
ラジオ情報と船の気圧計と付近の風向きなどを考慮し、前例のない異常な台風の状況や、
函館近傍の天気状況の中で、経験上から「台風が既に通過し大幅に弱まってくるはずだ」
との誤った判断をしたものと推定される。
- 強風と大波の対策として、投錨しかつ微速前進して風上に向って船首を維持する方法
(投錨仮泊法)をとった。通常の強風では有効であるこの方法は、
さらに強い波浪状況では問題が生じた。錨は海底に固定点を作り船首に結び付けられる。
この状態で微速前進すればかえって大波と強風によって、
錨を中心に左右に振られる結果となった。
また、波浪の中で上下に揺られる状態では固定的な支点を持つことによって、
錨が張り切った瞬間に強い力を受け、船がしゃくるような動作をする。
さらに汽車引き込み用の開口部を後部に持つ連絡船特有の構造(図1)のために、
大波による船尾からの浸水が下部の部屋や機関室に入り込み、
ボイラーへの浸水を招き、機関出力低下、さらに停止につながった。
これらが複合し、ついに自由な操船ができない状況に追い込まれ、
さらに風と波に押し流され船体が傾き、最後は復元できなくなった。
【対処】
27日夜、運輸相、国鉄副総裁らが函館に急行。海南審判庁らが、
原因調査にあたった。28日、衆議院運輸委員会は、国鉄総裁らを呼び、対策をただした。
また、船長は死亡したので、生き残りの最高責任者の2等航海士から、
事情聴取した。彼は、次のように語った。
「午後2時50分出港予定だったが波が荒くて延期、5時半ごろ天気も良くなり始めた。
『暴風雨警報』は出ていたが、12号台風では被害ながなかったので、
これほどひどくなるとは思わなかった。6時40分出港、直後に32m/sぐらいの風にあい、
港外に出るとすごいので引き返しかけた。防波堤外でアンカーを流したが、ツメがかからず、
エンジン全開で風に対抗したが10時ごろ両エンジンが止り、激波にもまれ10時26分座礁、
7,8分後横転した。救命具をつけていた客は瞬間的に海に飛び込んだ。
台風に対する見通しが間違っていた」
【対策】
- 船舶の運行判断システムを、船長への全権委任から地上運行局との合議制へと、
改善するとともに、一定の気象条件を超えた場合に、自動的に鉄道を含めて、
運行停止させる制度を採用した。
- 連絡船の船体を次のように構造改善した。
- 連絡船船尾の列車用扉の水密構造化
- 船体の転覆安全性向上
- 石炭炊きタービンシステムからディーゼルエンジン化
- 連絡船に替わる運輸システムとして青函トンネルの建設計画を開始した。
【総括】
常識を越える強さの台風が函館に接近したが、運行管理者である船長が、今後風が弱まると判断し、
乗客を乗せて洞爺丸を出航させた。しかし、すぐに突風に直面し、これに対する処置として、
湾内の投錨仮泊法を選択したが、浸水が生じ、最終的に座礁・横転し、大惨事となった。
【知識化】
- いくら優れた人間でもその判断を超えるような自然現象が生じることもある。
少しでも危ないと感じたら、安全側に決断すべきである。本例の場合、
仮に船長がそう決断し乗客を乗船させなくても、洞爺丸は強風を避けるために、
湾内で投錨仮泊し、結局は船長もろとも沈没しただろう。しかし、
そう決断することで乗客の命は助かったはずである。
- 従来の対応方法(本事故における投錨仮泊法など)は、あくまでそれまでの条件の、
範囲内であることが前提となっている。条件が従来よりも厳しい場合は、
その対応方法の見直しが必要である。より厳しい条件での仮想演習が不可欠である。
【背景】
青函連絡船・洞爺丸は、1947年に青森・函館間航路に就航した。洞爺丸は、
戦争によって壊滅状態となった青函連絡船増強計画の一環として建造され、
1950年日本初のレーダーを装備した当時最新鋭の貨客船であった。もちろん当時は、
青函トンネルがなく、本州と北海道を結ぶ主要手段としては青函連絡船しかなく、
重い運行責任があった。
また、当時の気象観測は、現在の気象衛星を活用しての台風情報とは違い、
台風の位置、強さ、速度、方向などの把握は極めておそまつであった。
この事故をきっかけに青函トンネル建設に向けての準備が加速し、
1988年3月13日夕刻、最後の連絡船が函館、青森出港、80年の青函連絡船の歴史を閉じた。
同日朝、青函トンネルの営業運転が開始された。
【引用文献】
畑村洋太郎編著、実際の設計研究会著:続々・実際の設計、日刊工業新聞社(1996)
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