【概要】 山陰本線余部鉄橋を、福知山発浜坂行下り回送列車が走行中、 最大風速33m/sの突風にあおられて客車7両が約41m下に転落し、 水産加工工場と民家を直撃した。車掌1名と水産加工工場女性従業員5名が死亡し、 6名のけが人が出た。列車指令員が、運転停止とすべき状況を知らされているにもかかわらず、 列車を抑止しなかったことなどが原因であった。(写真1) 【日時】 1986年12月28日 【場所】 兵庫県城崎郡香住町余部、山陰本線余部鉄橋 【事象】 山陰本線余部鉄橋を、福知山発浜坂行下り回送列車が走行中、 最大風速33m/sの突風にあおられて客車7両が約41m下に転落し、 水産加工工場と民家を直撃した。車掌1名と水産加工工場女性従業員5名が死亡し、 6名のけが人が出た。 【経過】 暮れもおしつまった12月28日、福知山線谷川駅を始発とする 「山陰お買い物ツアー」の臨時列車は、掘りごたつやカラオケの備えたお座敷列車「みやび」 の団体用客車7両で編成されていた。正月用の海産物をどっさり買った176名の団体乗客は、 香住駅で下車し、この列車は回送列車として浜坂行き下り列車となって、 余部鉄橋に向っていた。 余部鉄橋では、25m/s以上の風速で運転中止することになっていた。 鉄橋中央の両側に自動風速発信器(一種の風速計)があり、 これが限界風速を越えると福知山鉄道管理局列車集中指令装置(CTC) 指令室の赤ランプが点灯し警報が鳴る。これを聞いた列車指令員が鉄橋の両端に設置された 「特殊信号発光機」(五角形で五つ目の赤灯のある信号で、 赤いランプが回って危険を知らせる信号機)を遠隔操作することによって、 列車をとめるという安全システムを具備していた。 余部鉄橋西寄りには余部駅があるが、CTCの完成後、無人駅となっていた。 13時10分頃、CTC指令室に風速25m/sを示す表示灯が点灯し、 警報が鳴った。指令室では現場の風速が不明であるため、 余部鉄橋の風速が表示されている、香住駅に問い合わせたところ、 風速は20m/s前後で異常なしとの回答を得た。 その時間に列車がなかったこともあり、指令員は様子を見ることにした。 13時25分頃再び警報が鳴り、再度香住駅に問い合わせたところ、 瞬間で25m/s、今は20m/s前後との返事だった。回送列車は鎧駅通過後2分経過しており、 すでに余部鉄橋にさしかかっているため、列車を止める手動制御テコを操作しても、 間に合わないと判断して、テコを操作しなかった。 また、列車指令員は他の列車の故障に気を取られ、 回送列車抑止の手配を取らなかったともいわれている。 回送列車の運転をしていた機関士は、 鉄橋の東側の警報機が点灯していないことを確認し、 余部鉄橋に進入、風がきついため普段の60km/hから48km/hに減速して走行した。 鉄橋のほぼ中央付近で、冬の季節風としては観測史上4番目という、 最大風速33m/sの突風を受け、編成中央付近の客車 (両端の客車は電源付きで若干重い)からまず転落をはじめ、 7両の客車全てが台車の一部を除き南側に転落した。機関車は非常に重いため転落を免れたが、 客車の転落によりブレーキ引き通し空気管が切れ、非常制動がかかった (フェイルセーフとなっている)。機関士が後方を確認したところ、 牽引してきた客車がなくなっていた。 復旧は、事故発生3日後の12月31日15時11分であった。 【原因】 事故に至った最大の原因は、列車運行体制のずさんさであった。 運転規則では、風速25m/s以上になって警報が鳴ったときには、 列車指令員は列車を止めることになっていた。それにもかかわらず、 列車を抑止する行動を取らなかった。それは、警報が鳴ったとき、 まず香住駅に風の状態を問い合わせるのが慣例になっていたからである。 それは、風速計のうち1台が故障し、もう1台も実際より低い数値を表示するなど、 不備があったことなどの要因があろう。この慣例のため、 列車抑止は問い合わせ時間分だけ遅れるという状態になってしまった。 【対処】 事故後「余部事故技術調査委員会」が結成され、 事故原因の調査がおこなわれた。主に転覆限界風速について、 風洞実験をもとに検討された。その結果、 風力によって車両が転倒する風速は約32m/sとの報告がなされた (余部事故調査委員会報告書)。 【対策】
風速センサ(自動風速発信器)が、 列車を止めるべき状況を指令員に知らせたにもかかわらず、 指令員はその情報の確認に時間をとられて、列車を停止させる措置が間に合わなかったため、 列車が鉄橋から転落した。安全装置の制御ループの中間に、 人間の判断を介在させることの恐ろしさがわかる。人間は信号を無視できる。 単線鉄道で運転士が信号を無視すると正面衝突が起こる。  なお、列車の乗客176名が香住駅で下車し回送列車となっていたのは、 不幸中の幸いであった。もっとも乗客が乗っていれば、 強風に対する安定性も違っていたかも知れないが、 このような運行体制では、いつかは事故を起こしていたであろう。 【知識化】
余部鉄橋は、1912年(明治45年)に2年の歳月と33万余円の巨費、 延べ25万人の人夫を投じて完成された。建築様式はトレッスル式鉄橋 (トレッスルとは「架台」「うま」という意味)で、 当時の鉄道院技師古川精一などにより米人技師の意見を取り入れ設計された。 トレッスル(橋脚部分)の資材はアメリカから送られて来て、 余部沖でハシケに移し陸揚げされた。山陰本線敷設では最大の難工事であり、 この鉄橋の完成により事実上の山陰本線の開通となった。 高さ41m、長さ309mの規模は当時、東洋一としてデビューしたが、 現在でもトレッスル式鉄橋では、日本一の規模を誇っている(余部鉄橋の案内看板より)。 トレッスル式鉄橋は橋脚が送電線鉄塔のように鋼材で造られている。 橋の東・西・南の三方を山に囲まれ、北側は日本海に面した、 非常に厳しい地形の場所に架設されている。とくに冬季は、 強い季節風や吹雪が吹きつける場所である。 海岸からわずか70mであり、鋼材の腐食が進むので、 常にペイント塗装による防錆と腐食が進んだ小部材の交換が必要であった。 しかし戦中戦後の混乱や資材物資の不足で老朽化が進み、1956年に1次、 1963年に2次の補修5ヵ年計画が実施され、さらに1968年から8ヵ年計画で、 橋脚の横架材全部材交換の補強改修工事が実施され、明治のトレッスル橋梁は1976年、 64年目にしてリフレッシュされた。本事故の原因は単なる強風による列車転落でなく、 この補修工事による橋脚のアンバランス(縦架材は従来のままで横架材のみの強化)によって、 タコマ橋の崩壊のような自励振動が起こり、この振動で線路が曲がって、 その上を通過した列車が脱線し、転覆転落したのではないかとの見方もある。(写真2) なお、当時国鉄分割民営化(1987年4月1日)を目前に控え、 再雇用に不利となり得る列車運休を避けたいという空気が現場にあったと考えられる。 本事故後の風速20m/s以上での運行規制によって、 特にカニシーズンの冬季に集中して列車の運休や遅れが多く、 現在その対応が検討されている。一方現鉄橋の歴史的価値は高く、 地域の観光資源でもある。定時運行確保と景観の両立のため、「PCラーメン橋」 (コンクリート内に鋼線を埋め込み、張力で補強したPC(プレストレスト・コンクリート) を使用。柱と梁の接合点を固定し、ラーメン(ドイツ語で枠の意味)状に仕上げた構造の橋で、 荷重に対して強く、接合部分が変化しにくい特徴を持つ)が提案されている (「新橋梁検討会」座長:松本勝京都大教授)。 【参考文献】 畑村洋太郎編著、実際の設計研究会著:続々・実際の設計 日刊工業新聞社 佐々木富泰、細谷りょういち:続 事故の鉄道史 日本経済新聞社 神戸新聞Web News:定時運行確保と景観の両立を 余部鉄橋架け替え計画 (’03-09-06) http:// www.kobe-np.co.jp/ |