失敗百選 〜常磐線三河島での列車三重衝突〜

【概要】
   常磐線三河島駅の東方350mにおいて、運転士の赤信号の見落とし、 および停車手配の遅れによって、下り貨物列車、下り電車、 上り電車の列車三重衝突事故が発生した。最初の衝突後、 下り電車の乗客の多くが近くの非常用ドアコックを回して扉を開け、 上り線側の線路に降り、三河島駅に向って線路上を歩き始めたため、 上り電車に次々と撥ねられ、死者160名、負傷者296名という多くの犠牲者を出すことになった。

【日時】
   1962年5月3日

【場所】
   常磐線三河島駅

【事象】
   常磐線三河島駅の東方350mにおいて、下り貨物列車、下り電車、 上り電車の列車三重衝突事故が発生し、死者160名、負傷者296名という犠牲者が出た。

【経過】(図1および図2を参照)
   第一事故:21時36分、田端操車場発水戸行き下り287貨物列車が、 常磐線下り本線に入るところの赤信号(2117H電車が遅れたため赤となっていた) を見落としオーバーラン、21時36分30秒、安全側線に入り脱線傾斜し停車した。 信号と安全側線は連動しており、信号を見落とした貨物列車が本線に突っ込むことなく、 フェイルセーフは機能していた。しかし、貨物列車は安全側線内で脱線し、 本線側に傾斜してしまった。
   第二事故:上野発取手行き下り2117H電車(7両編成) は定刻より4分遅れて21時36分に三河島駅を発車した。 21時36分40秒、傾いてきた287列車の機関車に約40km/hで衝突し、 前2両が脱線し、上り線側に傾いて停車した。ただしこの時点では、 安全側線のおかげで全面衝突を避けられたため、25名が負傷しただけであった。 2117H電車の乗客の多くは、近くの非常用ドアコックを回して扉を開け、 上り線側の線路に降り、三河島駅に向って線路上を歩き始めた。 事故現場から100mのところに三河島東部信号扱所があって2人の掛員がいたが、 上司への報告や現場の確認に追われ、上り列車を止める動作が間に合わなかった。
   第三事故:第二事故発生から5分50秒後、上野行き上り2000H電車が急接近、 線路上を歩いていた乗客を次々と撥ね、脱線していた2117H電車と衝突し、 先頭車両は粉砕、2両目から4両目が線路下に転落した。 この第三事故による被害が大きく、本事故の死者は160名、負傷者は296名に達した。



【原因】
   直接の原因は、287貨物列車の赤信号見落としである。 システムとして、人間の信号見落としというミスをバックアップする装置がないため、 停止すべき位置をオーバーランした。そのときは、 オーバーランした列車と本線列車との全面衝突を避けるための安全側線という、 フェールセーフシステムがうまく機能し、貨物列車は安全側線に進入し、 本線に直接突っ込むことはなかった。
   しかし、貨物列車の速度が安全側線内で停止できるほど低くなかったため、 車止めに突っ込み脱線し、本線側に傾斜した。貨物列車への下り電車2117Hの接触は、 第一事故のわずか10秒後であり、避けることは困難である。ただこの時点では死者ゼロ、 負傷者25名であった。安全側線があったことによって、全面衝突を避けることができ、 被害は最小限に食い止められていた。
   ところが、1951年の桜木町事故(列車火災)の教訓 (乗客が車外に避難できず多くの死傷者を出した)によって設けた、 乗客用の非常用ドアコックを、乗客が勝手に使用し線路に降りたことが、 悲劇の始まりであった。
   そして被害拡大の最大の要因は、 上り電車2000Hの抑止手配の遅れである。5分50秒という時間は、 列車を止めるには十分な余裕時間といえる。しかしながら、 図3に示すような情報伝達の遅れによって、電車を止められず、 第三事故が発生し、多数の死傷者が生じた。


【対処】
   本事故は、事故の直接原因の解明も重要であるが、 最初の事故(第一事故)発生後の対処方法に多く学ぶことがある。
   すなわち、乗客が勝手に乗客用の非常用ドアコックを使用し、 線路に降りて線路上を歩いたこと、あるいは上り電車の抑止手配の遅れなど、 最初の事故発生後における対処方法のまずさが、 結果的に多くの死傷者を出す大惨事になってしまったことである。

【対策】
  1. 運転士の信号見落としのミスをバックアップする装置として、 国鉄(現在のJR)全線にATS(自動列車停止装置:赤信号を見落とすと、 自動的に非常ブレーキがかかるシステム)を設置した。
  2. 「なるべく列車を止めるな」から「何か小事故があれば、 まず列車を止めよ」へと指導方針が変化した。また後年、 列車無線が設置され、運転士に地上から直接連絡が取れるようになった。


【総括】
   貨物列車の信号見落としによる脱線傾斜と、その直後の下り電車の接触脱線は、 当時の信号システムを考えればある程度やむを得ない事故であった。 しかし、5分以上の時間の余裕があったにもかかわらず、 上り電車2000Hの抑止をできなかったことが大惨事につながった。
   信号扱い所の掛員に、列車を止める権限がなかったのは、 システムとして問題である。また、事故時を想定した教育が不十分であった。

【知識化】
   危ないと思ったら、まず動いているものを止めろ。 チェックはその後である。
   また、機械の運転者には、その機械を全てストップする権限を与えられ、 かつ教育がなされるべきである。
   もっともこの事故の教訓によって 「異常が発生したらただちに列車を止める」という規定が徹底されたが、 この規定は10年後の1972年に発生した北陸トンネル列車火災(トンネル内での緊急停車)で、 かえって被害を大きくしている。やはり、状況の変化で対処方法を適切に選択する必要がある。 マニュアルによる対応の限界を示しており、状況判断力の強化訓練 (想定外の不具合に対する応用訓練)が不可欠であろう。

【背景】
   1943年10月26日18時40分過ぎ、同じ常磐線の土浦駅構内土浦南信号所付近にて、 非常に良く似た列車三重衝突事故が発生したが、戦争中のことゆえ、 殆ど報道もされなかった。もし土浦の事故の教訓がいかされていたなら、 三河島の事故(特に第三事故)は防げたに違いない。
   また、今回死傷者が多くなった要因の1つである乗客用の非常ドアコックは、 1951年に京浜東北線桜木町駅での多くの死傷者を出した教訓から装着されたものである。 その事故とは、桜木町駅で垂れた架線に電車モハ63が接触、 ショートしたことから火災が発生し、逃げ場を失った乗客106名が焼死、 92名が重軽傷という大惨事を起こした。 多くの死傷者が出たのは、ショートによる停電で扉が開かず、 また窓が中段の開かない3段窓で乗客が脱出できなかったためであった。
   この、教訓による対策が、今回事故の被害を却って大きくしたようにも考えられるが、 線路は電車が通るという基本的なことを忘れている私たちも考え直す必要がありそうだ。

【引用文献】】
畑村洋太郎編著、実際の設計研究会著:続々・実際の設計、日刊工業新聞社(1996)