【概要】 首都圏の京浜東北線桜木町駅で、垂れた架線にモハ63が接触、 ショートしたことから火災が発生し、逃げ場を失った乗客106名が焼死、 92名が重軽傷という大惨事を起こした。架線工事のミスが火災発生の直接の原因であったが、 多くの死傷者が出たのは、運転士が事故発生と同時にパンタグラフを下ろしてしまったため、 自動扉が開かず、また窓が中段の開かない3段窓で乗客が脱出できなかったためである。(写真1) 【日時】 1951年4月24日 【場所】 京浜東北線桜木町駅構内 【事象】 京浜東北線桜木町駅付近で、垂れた架線に下り桜木町行きモハ63形5輌で編成された、 電車の1輌目が接触、ショートしたことから火災が発生し、逃げ場を失った乗客106名が焼死、 92名が重軽傷という大惨事を起こした。1輌目が全焼、2輌目が半焼した。 多くの死傷者が出たのは、自動扉が開かず、また窓が中段の開かない3段窓で、 乗客が脱出できなかったためである。(写真2) 13時38分頃、桜木町駅で上り線吊架線の碍子取替工事を進めていた作業員が、 誤ってスパナをビームに接触させたため短絡で吊架線が切断し、 上り線のトロリー線が垂れ下がった(吊架線とは、上の弓なりになって電線を吊っている線で、 電車のパンタグラフが接触するのは、トロリー線である)。 一方、モハ63形5輌で編成された京浜東北線の下り桜木町行き1271B電車は、 横浜駅を定刻より9分遅れて発車、終着駅の桜木町へ向っていた。13時42分頃、 1271B電車が桜木町駅の手前約50mでポイントを通って下り線から上り線に渡ろうとした直後、 垂れ下がったトロリー線が1輌目のモハ63のパンタグラフに絡みつき、 驚いた運転士がパンタグラフを下ろしたが、パンタグラフが横倒しになり車体と短絡し火花が発生し、 木製の屋根から車体に火災が拡大した。 桜木町付近の架線には横浜変電区と鶴見変電区が給電しており、 横浜変電区の高速度遮断機は直ちに作動して給電が停止したが、 鶴見変電区の高速度遮断機は作動せず、約5分間にわたって1,500Vの給電が続いた。 1輌目には150名以上の乗客が乗っており、自動扉が開扉できず、 乗客たちはなだれを打って1輌目の後部から2輌目に逃げようとしたが貫通扉が開かず、 また窓からの脱出も不可能で、その場で焼き尽くされるという悲惨な事故となった。 燃えている電車を見た運転士と添乗の電車掛は、 2輌目と3輌目の切り離しを行なった。 1輌目は約10分で全焼、2輌目も半焼して死者106名、 負傷者93名の多くの犠牲者が出た。 【原因】
事故後、事故の問題点を調査するために、国鉄(現在のJR) は当時の豊川分工場で電車の火災実験などを実施し、 事故より2ヶ月弱で調査報告書が運輸省鉄道監督局より発表された。 全焼したモハ形電車が火災に対し如何に弱いかを認識することになった。 そしてこれら戦時設計の電車に対し、応急的に車内への防火塗料の塗布、 集電装置の絶縁強化、車端部貫通路の整備などが実施された。 【対策】
モハ63は、「少ない車両にできるだけ詰め込む」 という当時の戦時下の方針で製造された車両であった。 立席定員が飛躍的に増えたため、車内の換気を良くする必要性があり、 そこで発案されたのが、中段を固定しておき、側面窓の上段が下降し、 下段が上昇する3段窓であった。このユニークな発案が多数の命を奪ってしまった。 【知識化】
事故を起こしたモハ63は、戦中戦後の混乱期に登場した通勤型電車である。 1,000両以上製造され、国鉄だけでなく、戦災で疲弊した各私鉄にも譲渡され、 戦後復興に果たした功績は大きい。そもそもモハ63は出来る限り多くの乗客を乗せるため、 座席数を減らし、迅速な乗降が出来るように出入口を従来の2〜3扉から4扉に増加した車両であった。 しかし、戦中、戦後の物資不足の中、重要な部品を省略したり、 粗悪な代用品を使用するなどいわゆる戦時設計車で、 質より量に重きをおいて安全性は二の次だったことは否めず、 この事故を契機に難燃化対策などが急遽施され、形式も72形と改められた。 ただ、その後は比較的近年まで活躍したことや、 現在でも通勤電車の基本形は全長20mに4扉ということをみても、 扉の基本設計に間違いはなかったと考えられる。しかし、3段窓に関しては大きな過ちといえるが、 最近の車両は冷房の普及と大サイズガラスのコストダウンに伴い固定窓、 すなわち中段どころかまったく窓が開かない車両が増加している。 最近の車両の不燃化対策が徹底しているから問題ないのであろうか。 【参考文献】
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